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KAN 『カンチガイもハナハダしい私の人生』 インタビュー

アルバム
KAN New single『カンチガイもハナハダしい私の人生』

『カンチガイもハナハダしい私の人生』
2010.03.10 RELEASE
EPCE-5700/1
3,200円(tax in.)

KAN アルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』を購入する
01.REGIKOSTAR ~レジ子スターの刺激~
02.小学3年生
03.ピーナッツ
04.バイバイバイ(studio recording)
05.青春の風
06.ordinary days
07.オー・ルヴォワール・パリ
08.よければ一緒に(full size)
09.予定どおりに偶然に(with ASKA)

KAN 15thアルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』リリース記念特集
KAN 15thアルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』リリース記念特集

KAN 『カンチガイもハナハダしい私の人生』 インタビュー

 KANの最新アルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』。芸能活動23周年、15枚目のアルバムにしてこのタイトルは素晴らしい。ということで、hotexpressでは、彼は本当に“カンチガイもハナハダしい人生”を歩んできたのか、その歴史を本人に語ってもらうことにした。そこには窮屈な人生を打開するヒントも多分に隠されており、KANの最新アルバムやコンサート同様、誰が読んでも楽しめるテキストが完成。今から夢を追いかける人も、夢に押し潰されそうな人も、夢なんて忘れてしまった……という人も、ぜひご覧頂きたい!

--3月10日にアルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』をリリース。せっかくこういうタイトルなので、KANさんがどんな人生を実際には辿ってきたのかも知りたく。こういう質問をされるのは久しぶりだと思うんですが、KANさんが音楽に目覚めたきっかけって何だったんですか?

KAN:ピアノを8年ぐらい習わされていたので、小学校高学年ぐらいで家にあったギターとかもなんとくなく弾けるようになって。そんな流れで普通にビートルズのコピーをやるようになったんです。で、1976年、ポール・マッカートニー&ウイングス『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』という3枚組のライブアルバムが出た頃に、NHK「ヤング・ミュージック・ショー」という番組でそのフィルムを流したんですね。それを観て「これだな!」って思ったのはよく憶えてます。自分で作った曲歌って、すごくデカイところで「うわぁぁぁ!」って言われて、更には大金持ちで。

--(笑)。

KAN:「俺もこれだ!」って思ったんです。で、その当時からピアノはもちろん、ギターも誰よりも早く触っていて、しかも高校のときはオリジナルも作っていたので、僕が音楽的に優れていることは誰もが認めていたことだったんです。だから夢とかじゃなく「俺はこれをやる」って当然のように思っていたんですね。でも大学で東京に来てバンドを組んで、1983年頃にヤマハの「イーストウエスト」っていうコンテストの地区予選に出るんですけど、同世代の十幾つものバンドを同時に観るんですよ。そこで初めてね、みんなすごく巧いし「俺は何でもないんだ」って気付く。それこそ“カンチガイもハナハダしい”感じだったんです(笑)。

--最初のカンチガイ、出ましたね。

KAN:まぁカンチガイと言うよりは世界が狭かったんですよね。福岡の、自分の周りだけでも物事を判断していた。でも大学も3年でしたし、留年も決まっていたりして「(音楽以外に)他に選択肢ねーし!」みたいな。

--僕は勝手にKANさんのことを日本のビリー・ジョエルと呼ばせてもらってるんですが、ピアノマンになるきっかけは何だったんでしょう?

KAN:高校生の頃からビリー・ジョエルが好きで、東京に来て1週目でビリー・ジョエルの武道館公演を観たんですよ。上京したその足でウドー音楽事務所に行って、チケット買って。で、そこでまた「俺のやるべきことはこれだ」って決めるんです。それで大学からバンドでピアノを弾くようになって。そのバンドは半年で辞めてしまうんですけど、高校のときの先輩が青学でフュージョンのバンドをやっていて「就職でボーカルが抜けるから入らないか」って誘われるんです。それで、ピアノボーカルで自分の曲をやるっていう前提で入って、前述のコンテストとかに出るようになって。

--いつソロになったんですか?

KAN:コンテストとか出るようになってレコードメーカーの人から「やる気ある?」みたいな話が来るようになって。僕のデビューすることに直接的に力を注いでくれた人にデモテープを作る度に聴いてもらうようになるんです。そこで「バンドでやりたいの?ソロでやりたいの?」って言われて「あのー……、自分はソロで」って(笑)。先輩たちに悪いなとは思っていたけど「このバンドでデビューしよう」っていう意識は持ってなかったので。

--また、KANさんは世間のイメージでは『愛は勝つ』で早々にブレイクしたアーティストという印象もあると思うんですけど、結構下積み時代というか、不遇の時代も長かったんですよね?

KAN:そうですね。『愛は勝つ』は5thアルバム『野球選手が夢だった』の収録曲ですから。僕はアマチュア時代に100曲ぐらい作っていて、それをどんどん出したいなと思っていたんですけど、それを当時所属してたレコード会社であるポリドールも賛同していた。だから最初の1年半で3枚アルバム出しているんですよ。で、1st『テレビの中に』はアレンジを全部自分ひとりでやったんですけど、それが辛くて、アレンジは僕がするんだけど面倒くさいことをやってくれる人がほしいと思ったんです。それで当時はまだ駆け出しだった松本晃彦くん、今は「踊る大捜査線」で作曲家として大ブレイクしている彼に、2nd、3rdにサポートとして入ってもらって。あと、歌詞に関してはアマチュア時代から「歌詞を書く」なんていう意識が無かったもんですから、ほとんどの歌詞をなんとなく作家の人に頼んでいたんですけど、ライブで歌っていく内に違和感を覚えるんです。全然俺と関係ない歌詞を歌うことに。それで「下手でもいいから自分で書いた方がいい」と思うようになって、3rd『GIRL TO LOVE』で10曲中8曲書いて、4th『HAPPY TITLE -幸福選手権-』でやっと詞曲を全部自分で書くようになった。

--なるほど。

KAN:でもそうやっていろいろ変化はあったんですけど「これって誰か気付いてるのかな?」っていう感じだったので、実は3rdで1回凹んじゃってるんです。で、4thはいろんなアレンジャーを入れたんですね。僕を入れて5人で2曲ずつアレンジをやったんです。それにより何かが変わるかなと思ったんですが、ビジネス的状況は一切変わらず(笑)。で、5thから小林信吾さんに僕のアレンジを良くしてもらう、というスタイルにしたんですね。

--それがヒットに繋がっていくんですね。ただ『愛は勝つ』が売れたら売れたで今度はどこへ行っても『愛は勝つ』を求められる辛さがあったと思うんですが、そこは実際のところどうだったんでしょう?

KAN:実際のところは、僕も自分がどうしていいか分かんなかったし、周りもそうだったと思います。僕自身はどうしていいか分からないまま、とにかく大変なスケジュールで、Wink並のスケジュールで(笑)。温泉に逃げたい人の気持ちがよく分かるぐらい、ひとつひとつモノを考えられないんですよ。スタッフも含め、こっちサイドでコントロールすることが出来なかったから、とりあえず来た話は全部受けるみたいなことになっていたんでしょうね。だから91,2年はレコーディングとコンサートのことはよく憶えていますけど、それ以外のことは刻まれていない。刻む前にどんどんどんどん通り過ぎていきましたからね。

Interviewer:平賀哲雄
Page Design:佐藤恵