今回、7月9日に行われるワンマンライブ【Life Palette-運命-】に向けて、大宮あん朱、濱田貴司、arpのこの二人がこれまで以上に自分たちの音楽の意義、言うならば“生き様”みたいなモノをひとつの形にしようと意気込んでいるのを感じたhotexpressは、二人揃っては初となるarpへのインタビューを敢行することにした。そして、そこで語られるたくさんの言葉からarpのその意気込んでいる理由を感じ取らせてもらうことができた。純粋な想い。その想いが生み出した目論み。その目論みが教えてくれるであろう運命。このインタビュー記事は、【Life Palette-運命-】に足を運ぶ人はもちろん、全arpファン、そして一生懸命に生きる人々に熟読していただきたい。
−−今日は“Life Pallete”とは一体何なのか?みたいな部分について集中的にお話を聞かせていただこうと思っていたんですけど、その前に濱田さんにインタビューさせていただくのが今回初めてということで、まず濱田貴司が音楽に目覚めてから大宮あん朱に出逢い、arpを結成するまでのお話を聞かせていただけますか?
濱田貴司:ピアノは一応3歳くらいから習い始めたんですけど、音楽の目覚めに関しては、道が何本かに分かれていくんです。例えば、ビートルズに憧れて、そこから派生してロックを好きになっていったりする流れがあると思うんですけど、僕の場合はその流れが3つあるんです。ひとつはフォーク。もうひとつは映画音楽。あともうひとつはテクノミュージック。そんな感じでバラバラなんですよ。で、フォークのスタートはサイモン&ガーファンクル。今思えばなんですけど。映画の主題歌になった曲にハマって。それは母の影響だったんですけど、そのまま母の影響で松山千春、さだまさし、まだフォーク色が強かった頃のTHE ALFEEとかも聴くようになって。そこから中学生のときにはニューミュージック(笑)主にオフコースを聴くようになって、歌モノはそこから派生していって。
−−なるほどね。
濱田貴司:あと、これは映画音楽にハマったキッカケになったレコードなんですけど、『E.T.』のサントラを年がら年中、朝から晩まで聴いていたんですよ。そこからジョン・ウィリアムズの曲を聴きまくるようになるんです。『E.T.』に関しては、毎日4回も5回も繰り返し聴いて。それを1年くらい繰り返していました。映画館で『E.T.』を始めて観たときにどっぷりハマって、朝10時が最初の回で、今みたいに入れ替え制じゃなかったから夜の8時までずっと観てました。それをまた何日も繰り返して。それで映画音楽にハマっていって。しばらくは、それしか聴いてなかった。高校に入ってからは、本当はバンドを組みたかったんですよ。でも、周りの子が良い子ばっかりの、わりと受験第一の学校だったんで相手にしてもらえなくて・・・。それでもどうしても音楽をやりたかったので、当時ようやく打ち込みの機材が一般の人でも買える値段になっていたので、打ち込みを始めるようになったんです。
−−そこからテクノの流れが生まれるわけですね。
濱田貴司:ただテクノに関しては、特に何が好きってわけではなかったんですよね。タイトルも覚えずに聴きまくってました。そんな感じで、それぞれの音楽が僕の中に残っている。そんな感じしませんか?僕の作る曲って。実はこの3つが切れ切れにクチャククチャになったらこうなるみたいな。
−−自分で曲を作ろうと思ったキッカケは?
濱田貴司:笑っちゃいますけど、いろんな音楽を聴いていて「こんなん、俺にできるぞ!」って思ったんです(笑)。フォークにしても、映画音楽にしても、テクノにしても、すぐ書けるなと16ぐらいのときに思っちゃったんです。これは「10代でデビューできるな」って思って(笑)。「自分の力で成り上がるために、音楽って近道かな」って、とりあえずうぬぼれていました。それがとんでもないことだなと気付くのにそんなに時間は掛からなかったわけですけど。いや、そんなことないかな。まぁでも表現を始めたキッカケは・・・“うぬぼれ”ですね。一般的に流れている音楽は「俺でも作れるぞ!」っていうのはありましたね。それがうぬぼれだということに気付いて「じゃあこれしなくちゃ」「あれしなくちゃ」ということを積み重ねて行った感じです。
−−あん朱さんに出逢うまではどんな音楽活動を?
濱田貴司:もともと歌モノを作る前に、高校時代から劇団の音楽作りとか、インストをやっていて。バンド組みたかったんですけど、僕が完璧主義者なんで誰も付いて来てくれなかったんですよ。高校生に求めたモノというのがとんでもなかったんだと思う。当時、凄いバンドブームで、音楽のクオリティというよりかノリが重視されていたというか、発表の場自体もバンドでないとやりにくかったんですよ。キーボードや打ち込みで音楽を表現する場所はどこにもなくって、それで自然と、神戸で力を付けていた演劇の監督さんと意気投合するんですよ。そしたらいろんなことが楽しくなってきて。どうすればお客さんに伝わるかとか、どうやったら集客できるかとか、どうやったら感動に辿り着けるかという裏打ちをしっかりとしながら、音楽の基礎を作っていくという意味では、友達と音楽をやっていくよりも遥かにに楽しかったんです。17歳くらいから20歳くらいまでは、それしかやってなかったですよ。でも18歳のときに音楽をやるために上京して「音楽で食ってくためには歌モノでなくちゃダメだな」と思って、20歳くらいからは歌モノを作るようになったんです。実は僕自身、音楽ではない他の仕事が気持ち良くなってきていて、コンピューターのエンジニアの仕事をしていたんですけど、すごく恵まれた環境で、そっちが面白くなってしまったんです。でもふとしたキッカケで「そんなことをするためにこっちに来たわけじゃない」と思って。それで「25歳までにデビューできてなかったら辞めよう」って。
−−自分を追い込んで。
濱田貴司:で、25歳が迫ったときに「音楽を徹底的にやっておかないといかん」と思って、ボーカリストを探し始めたんです。自分はどういう曲を作っていって、その曲を歌ってもらうには、どういう人がベストか。上手くいかなかったときに「自分には才能がなかったんだ」と思える歌い手さんを探したい・・・そう思ってボーカリストを探したのが、arpの始まりですね。
大宮あん朱:かなり後になって「それまでの仕事を辞めて、初めて組んだのがarpだった」って聞いたんですよ。私はそれをデビューしてから、インタビュー中に知って(笑)。
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