|
|
 |
|
 |
| |
|
|
 |
 |
 |
| |
|
|
 |
| |
久保田利伸、hotexpressインタビューに初登場!今や誰もが知るR&BやHIP HOPなどのブラックミュージックを25年以上前から敬愛、表現し続け、アメリカでのデビューを果たしたり、たくさんのヒット曲を生み出してきたり。そして今、MISIAをはじめ、彼をリスペストするアーティストたちと濃厚なコラボレーションを展開している久保田利伸に、自身の歴史と日本のシーンの歴史をガッツリ語ってもらいました!全音楽ファン、必見です。
|
|
 |
 |
 |
−−今日は新曲についてはもちろんなんですが、久保田さんにもしお会いすることができたら聞きたいと思っていたことがたくさんあるので、今日はいろいろ聞かせてください。で、まず聞きたかったのが、久保田さんは子供の頃からこんなにもファンキーだったのか?っていう(笑)。
久保田利伸:普通ですよ(笑)。暗くはないですね。きっと明るかったですね、社交的な子供だったと思います。でもそれ以外は普通の環境ですよ。中学生ぐらいからわりと黒っぽい音楽ばっかり聴くようになるんですが、でもそれまでは普通ですよ。
−−前にテレビで、一家揃ってみんなファンキーという話を聞いたんですが。
久保田利伸:実家は八百屋やってるんですけど、まぁ職業的にファンキーかどうかって言ったらファンキーな職業ですからね。親父が1番ファンキーでしょうね。見た目がジェームス・ブラウンと同じ顔してるんで。
−−(笑)。そこからどういった流れでファンキーな方向性へ?
久保田利伸:中学生くらいになると、1人の時間が好きになったりするじゃないですか。それでラジオを聴くようになって。あの時代はコンピューターも存在しないから、1人の時間に自分の部屋でする事と言ったら、本を読むか、ラジオを聴くかしかない。で、ラジオを聴くと、知らない音楽がいっぱい流れてくるわけですよ。その中で「歌、上手い人だなぁ」って思ったのがスティーヴィー・ワンダーで。「こういうの真似しちゃおう」「こういう風に歌えるようになりたいな」ってところから入っていったんです。当時はテレビでも「Soul Train」という番組がやっていて、アメリカのソウルとか流したりしてて。だから今思えば、あのときに第1期ファンキーブームがあったのかもしれない。僕が子供だった頃に大人だった人とか青春だった人は、意外と第1期なのかも。
今でも憶えてるのは、僕が高校生のときに1回アフロヘアーにしたら、20歳くらい歳上の親戚のおじさんが「おー!お前はソウルが好きなのか!」って言ってきて、「20コ上の人がそういう事言うんだ」って思って。だからあの時、何かそういうブームがあったのかもしれないですね。
−−ただ、さすがに学校行ったら久保田さんのようにファンキー系な人はいなかったんじゃないですか?
久保田利伸:そうですね。なので、音楽という意味では、友達と趣味は合わないですよね。時代とか年齢的に。でも基本的に中学生だったり、高校生前半であれば、ソウル一辺倒というよりもいろんな音楽を聴くじゃないですか。どちらかと言うと、テレビで当時流れていないスタイルの音楽を聴くのがとりあえず嬉しかったり楽しかったりして。「知ってるぞ」系の人達がいて、1部の仲間で競うじゃないですか?そういう意味では、気の合う奴はクラスに2,3人はいましたけど。まぁでもファンキー系となってくると、中学校のときは1人もいないですよね。高校生くらいになって、やっと1人か2人。
−−自分がミュージシャンになるんだという志はいつ頃から持っていたんですか?
久保田利伸:そのね、区別が無いんですよ。さっきも言ったように初めてラジオとかで聴いて「スッゲーな、この人」って思って、それと同時に真似して歌いたくなって。そうやって真似して歌ってると、「俺もこういう事をやる大人になりてぇな」と。イコール「歌を歌う奴になりたい」って。そのままずっと続けて、東京に来るようになると、本当の音楽業界人と擦れ違ったり会ったりするようになって、どんどんプロに近付いていったってだけで。
−−ただ、久保田さんって歌い手としてより作曲家としてのデビューの方が先なんですよね。これはどういう理由や経緯でそうなったんですか?
久保田利伸:それはね、もちろん作曲家になるつもりなんてアマチュア時代からなかったんですが、そのときにたまたま「お世話になろうかな」って思っていた事務所と契約したんですけど、なかなかデビューができなくて。それを待っている間に、勉強になるし、人にいっぱい曲を書こうと。で、ただ書いてるだけじゃアレだから、いろんな人に曲を使ってもらえるようにスタッフがしてくれて。で、要り様の人が歌ってくれただけで。待っている間、勉強期間の間にそういうチャンスがあったという事ですよね。
−−その後、1986年にデビューを果たすわけですが、その当時、久保田さんが大好きなブラックミュージックって日本でどの程度の市民権を持っていたんでしょうか?
久保田利伸:「日本で売っていくモノ」と「日本人が歌うモノ」という意味では、浸透度は薄いですよね。例えば、ソウル、リズム&ブルースって言葉は知ってるけど、R&Bって言葉になってくると分からないし。あと「ファンキー」っていうのも今や楽しい言葉ですけど、それも1部のソウルファンが音楽用語として使う言葉だったし。だから僕がデビューした頃に「いやー今回はファンキーなモノ作っちゃいました」って言うと、その「ファンキー」って言葉が妙に新鮮に引っ掛かったのかもしれないですね。もしかしたら関西の方では普通にオバちゃん達が「それ、ファンキーやね〜」って言ってたかも知れないですけどね。
−−(笑)。
久保田利伸:でもそういうテイストを持っていて、日本語で歌ってる音楽が商売になると業界は思ってない。1部の人が思い始めてる感じはありましたけど。そういう人達が僕の周りにちょっといたという事ですね。
−−そういった土壌と、自分の追及していきたいモノを「もっともっと浸透させていきたい」って意欲の中で、やっぱり葛藤する事っていうのはあったんでしょうか?
久保田利伸:当然ありますよね。ただ、今日、上手い形で質問してもらったなと思うのは、ちょうどデビュー前に“そのつもりは無かったけど、いろんな人に曲を書いていた期間”があるじゃないですか。そのときに曲を書いていた相手っていうのは、決して、まぁ当時存在しないから仕方ないんですが、ソウルシンガー達ではなくて。歌謡曲っていうジャンルの人達に書いてるから。そこで自然に、単純に「ただソウル臭いノリのモノ」っていうよりも、メロディーにおける日本のワビサビ的なところとかが、自然と、当たり前のモノとして体に入っていった気がしますね。よくその質問ってされるんですけど、今日初めてちゃんと答えられた気がする。
−−(笑)。
久保田利伸:よく聞かれるんですよ。でも、いつも「それはきっと育ちが普通だし、八百屋の子だし。だからそういうバランスじゃないですか?」って答えるんですけど、多分実質的には、デビュー直前にいろんな人に曲を書いていた事が大きい。自分の中に自然と入ってくる日本のワビサビと、自分がとことんハマってしまっているソウルミュージックとのバランスを、そこで取れていたのかもしれないですね。
−−デビューする頃には、それはもう飲み込めていたっていう事ですか?
久保田利伸:飲み込み切れてはないですけど(笑)。やっぱり葛藤は当然あるんですけど、あんまり苦労した葛藤という気はしないですね。探しながら、探りながらっていうのは、いつでも付き纏ってますけど。
|
 |
 |
 |
|
|
|
|